里の行

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スピの皆さんの中には

「悟りに至れば苦から解放される」

と思っている人もいるかもしれません。

それは

「自分もある日突然

悟りの境地に “シフト”できさえすれば……………」

という潜在的な期待があるのでしょう。

そういうシフト体験、してる人が実際けっこういらっしゃいますもんね。

でもね……

「ある日突然のシフト」というのは

4次元スピのマヤカシ体験に過ぎないのですよ。

彼らはそれで

「私もついに悟りに至ったんだな~☆」

ってマヤかされてしまっているということなのです。

なので、

そういうのはマヤカシの体験なんだ〜っていうのを見抜いていかなくては真の覚醒はできないのです。

だって、

4次元スピリチュアルの世界は
どんなことでも
あり得ないようなことでも
起こってしまう
ミラクルワンダーランド
なのですから。

そういう幻想世界のミラクルワンダーから醒めるのが

( =スピリチュアル卒業 )

悟り (解脱) なのです。

だからもうマヤカシのスピ概念

「悟りに至れば苦から解放される♡」

というのは頭から閉め出してくださいね。

シフトが起こるのを真剣に待っているような人って、

「ラクしたい」
「ラクして悟りたい」

のでしょうね。

でもね、

人間、手抜きや怠慢して至れるものなんて、

1つたりともない ですからね。

もしあったとしても、

そんなのは完全なマヤカシでございますよ。

自分でコツコツ努力してつかんだものだからこそ、
ありがたみもあるのだし
一生の宝にもなる。

怠慢したい人には酷ですけれど、

「自分の人生に現れる苦をぜんぶ滅すれば悟りに至れる」

これが正道ですからね。

覚醒につながる「苦を滅する」というのは
内観して
自分の自我&エゴとしっかり対峙して
受け入れて
昇華させていくしか方法はないです。

その作業をコツコツやっていけば
自分の苦は一つ一つと消えていく。

そのあかつきに
悟りという境地がある。

もし最終到達点の悟りにまで至れなかったとしても、
自分の中からいくつか苦が消えるだけで
人生はとても生きやすくラクになります。

なので内観はやらないよりやっていった方が全然いいです。

実は
悟りに至る道というのは
自分でやる心理セラピーのようなものでしてね。

わざわざプロのセラピストに予約とったり
お金払ったり
何時間もかけたりしなくても、
自分で思いついたとき
いつでもどこでも
タダでセラピーできる
っていうのが内観なのですよ。

内観していけば
自分の抱えている苦痛 (心の痛みも体の痛みも) が癒されていきます。

冒頭の

「悟りに至れば苦から解放される」

と思っている人というのは、

実は「悟りたい」っていうよりも、

「苦痛から解放されたい」

というのが本当に望み求めていることなのではないでしょうか。

真の悟りに至る道は
自分で自分を癒していく道でもあるのです。

なので
なにも悟りや覚醒を目指すために内観するんじゃなくてもいいのですよ。

自分の苦から解放されるため、
自分の苦痛を癒すため、
内観すればいいのです。

私もそうやっていったら
ぜんぶの苦が消え失せて
いつの間にか真我覚醒にまでいっていたのです。

私は自分の人生に設定してきた苦しみを
すべてやり終えたので
苦しみの体験をすることはもうないです。

( ※ フワフワスピさん特有の思い込みの妄想ではなく、それがはっきり自覚できるのが真我覚醒した人です)

さて。

前回『ノンデュアリティに至るプロセス』として
価値観と二元性の仕組みについて説明をしましたが、

私は価値観を手放そうとか、
価値観を見直そうとか、
そういうつもりであの記事を書いたのではないのです。

実生活の中で、

「あ、この思考の中にこんな二元がある!」
「自分にはこんな価値観がある!」

みたいに いちいち見張る必要はないのです。

実践するのは、
何か出来事が起こって、
そのとき自分にわいた思考や感情について内観すること。

私が一貫して言いたいことは
「内観しよう」
それだけですから。

私は「価値観を手放していこう」と言っているのではなくて、

できるなら内観して、
自分の内にある自我&エゴを見つけて昇華させてやることで
自分を縛っている価値観を弛めていくことができるよ

って言いたいのです。

自分の内に何があるのかも観ないまま、
知らないまま、
「価値観のないニュートラルな自分になろう!」
とするんじゃなくて、

自分の内にある自我&エゴを観て昇華させるごとに
価値観がニュートラルになっていき
頑固に握りしめていたものが弛んでいくよってことなのです。

価値観というのは
その人の自我&エゴが元になって作られるものです。

なので、
自分の自我&エゴの顕れである感情や思考について内観昇華すれば、
自ずと価値観も変化していくのです。

だからわざわざ無理やりに
価値観を変えようとか
無くそうとか
する必要はないのですよ。

その時々で
自分で気になった、引っかかった
自分の感情や思考を観るだけでいいのです。

『内観する順番』というのも、
魂のプログラムというのは
ちゃんとうまいこと考えられていまして。

後回しでいいものを先にやる
という無駄なことは一切ない。

その人にとって優先的なものから、
自分で自然にフォーカスし
内観するようにうまくプログラミングされているのです。

ですから、
自分を信じて
自分がやりたいように内観していけばいいのです。

といいますか、

私たちにはそれしかできないのですからね。

ここで『ノンデュアリティに至る仕組み』
少し補足をしておきますね。

例えば「好き嫌い」の二元で
好き嫌いの “こだわり” があんまりない
という人の場合、

好き←←・→→嫌い

好き嫌いに非常に “こだわる” って人の場合、

好き←←←←←・→→→→→嫌い

という風に、
矢印の数が多い少ないと違いますね。

この矢印の数が
自我&エゴ (この例では “こだわり” ) の多さ少なさです。

ということは、
矢印をゼロポイント「・」の位置へ戻していくには
その矢印の分だけ内観と昇華をしなくてはならないってことになります。

( ※ 矢印は自我&エゴに応じて増えたり減ったり、行ったり来たりします)

なら、
自我&エゴ ( 矢印←→ ) の数が少ない方が
昇華させるのも少なくてラクじゃん~~
って思われますか?

そりゃそうですよね。

でもね、

『この矢印の数 ( 自我&エゴ ) を昇華させただけ真我は覚醒していく』

のです。

つまり、

自我&エゴが多いほど
その自我&エゴを内観昇華すれば
真我が多く覚醒するってことなのです。

自我&エゴが少ないのは、
昇華させるのも少なくてラクなのはラクなのですけど、
いざ彼岸へ渡るときに
真我 (智慧) が足らない
ってことになるのですね。

例えば、
子供は無邪気で自我&エゴがまだ少ないですよね。

でも “子供” のままじゃ同じだけ真我もまだ少ないってことなのです。

酸いも甘いもって経験豊富な人を “大人” と言いますが、

たくさんいろんな経験して
たくさん自我&エゴを増やすほど
内観と昇華しさえすれば
同じだけ真我も増えるから
彼岸へ渡りやすくなるということなのです。

私がいつも言っている
「やりたいと思うことは何でもどんどんやろう」
というその真意は、

「自我&エゴをいっぱい溜め込んでいこう」
っていうことなのです。

前に
「自我&エゴを昇華させると無感情・無反応になる」
って書いたの 覚えていますか?

これ、

自我&エゴがなくて最初から無反応なのと、
自我&エゴがあって内観して昇華させてから無反応になるのとでは違って、

前者では真我の発生にはつながらないのです。

悟り系の皆さんは
悟りを目指す作業として
執着を手放すということを熱心にやっているようですが、

その前に必要なだけの自我&エゴ (煩悩) を溜め込んだのかな?

ってことが盲点になっているのですよ。

なので
“手放しのステージ” に入る前にやっておくこととして、

「やりたいことは何でもどんどんやって、
人ともたくさん関わって、
たくさんイヤな思いもして、
たくさんの思考や感情を経験して、
たくさん反応して、
たくさん泣いたり怒ったり悩んだりして、
たくさん自我&エゴを溜め込んでいこう」

と私はずっと伝えているのです。

( ※ 溜め込みと手放しと、同時進行でももちろんOK)

彼岸へ渡るために
智慧をたくさん得るには
それだけたくさんの煩悩が必要なのだということです。

嬉しいとか楽しいとかの体験ももちろんたくさんやればいい。

でもね、
「やりたくないことは避けて 楽しいことだけをやる」
というのでは偏りにしかならないんですよね。

私たちは不快なイヤな体験はできるだけしたくないし、
避けよう逃げようとしてしまいます。

そういう体験したくない、避けたい、イヤなこと、
でも避けようとしても起こるそれらは、
魂がやりたくてやっていることだから起こっているのです。

私たちが「やりたいことは何でもやろう~♪」というのは、
自我 (の頭) が好きで選っているやりたいことであって、

私たちがやりたくてやっていることも、
やりたくもないのに起こることも、
どちらも魂のプログラムに組み込まれているから
体験しています。

体験しなきゃいけないから体験しているのです。

例えば、
釣りが好きでやる人と
全く釣りには興味ない人がいる。

山登りがやりたくてやっている人と、
山登りなんてやろうとも思わない人がいる。

それはその人たちのプログラムがそうなっているからです。

そのほとんどは自我が選ってやっているのですけど、
思いもよらないことが起こることもある。

このどちらも魂のプログラム。

避けることはできないのです。

避けることができないことが起こっているのだからこそ、
逃げずに向き合う覚悟が求められる。

その覚悟ができた人が
覚醒を進んでいく人なのです。

私が「やりたいことは何でもやろう」と言うのは、
自我のアナタが選って自発的にやることだけでなく、
魂がやりたくて人生に不意に起こすことも含めて
のことを言っているのです。 (★)

ネガティブ体験もポジティブ体験も
あらゆるすべての体験が平等に大切で
その人に必要なことだから経験しています。

これが「里の行」といわれているものなのですよね。

何も山奥に籠って過酷な荒行などしなくても
(★) に書いたようにごく普通に生活をしていれば
覚醒するプログラムの人は
覚醒するのに必要な “修行” となるものは
すべて生活の中に組み込まれているのですからね。

それと。

実際に自分で体験して解ったこと
経験してそれについて内観し
自分で知覚したことだけが
腑で納得できること。

それだけが真我覚醒の糧になるものです。

人が言っていることを読んで、
聞いて、
頭で分かった、
理解できた、
と思っていても、
それは腑で納得したこととは違います。

それは自分 (頭) でしっかり分かっている、
理解できていると思えていても、
『我』は絶対に騙せない のですよ。

なので
自分でいろんなことをたくさん体験して
それについて自分で内観しようねと言っているのです。

さらに、
覚醒していくにつれて執着心も薄れていきますので、
自我の『物質的なやりたいこと』というのが徐々になくなっていってしまうのですよね。

お金がたくさん欲しい!とか
仕事で成功したい!とか
高級なものに囲まれた生活がしたい!とか

そういう物質的な願望を叶えての幸せ♡
というものには興味がなくなっていっちゃうから、

だから今のうちに
今のこの時を
思いきり謳歌してほしいなぁ~と思うので

「何でもやりたいことはどんどんやっておこう!」

と私は何度も言っているのです〜。

食べたいものがあるなら食べておきましょう。
行きたいところがあるなら行っておきましょう。
読みたい本があるなら読んでおきましょう。
自分が気になることはどんどんやっておきましょう。

✴︎

覚醒すると
願望もなくなるし
願望を実現できたことで幸せを感じる
ということもなくなりはしますけど、

今の私には何の悩みも問題もないし、苦痛もない。

「あらゆる苦をもう経験しなくてもよくなった」
という真の安堵の中で生きている。

私はそれが『悟りの醍醐味』だと思っています。