
スピリチュアル界をあちこち見て回っていますと、
どうも私が「それは悟りではないよ」という悟りが存在してるようで。
早速リサーチを開始しました。
私の中では、
私の経験してきた「悟り」はもちろん1つきりで、
それが人間の到達できる最極の悟りだと私は知覚していました。
でも宗教の概念の中にそれとは全く違う「悟り」を見つけたのです。
これまでは宗教のことはスルーしてたんです。
なぜなら、私流の『次元の説明』に照らして言うなら、
宗教は3次元のレベルのものだからです。
ですがまだ3次元の学びをやらなきゃいけない人たちが4次元のスピ界に流入してきているゆえ、
今では4次元にまで宗教は範囲を広げてしまっています。
スピ界では神社好きな人が多いですよね。
私的には神様たちの御座す神社や仏閣、仏教やキリスト教などの宗教を信仰している人たちはまだ3次元のレベルだと思っています。
それは、自分以外の何かに帰依 (依存) している、頼りにしている、宗教という伝統の教えを信じ、何かにつけ祈り、心身を委ねているから。
4次元にまで来ている人は本来は外にあるものには頼らなくなっています。
神社に足繁く通ったり、神頼みしたり、祈ったり、外に手を合わせたり頭を垂れたりしない。
それらをやっているうちはまだ3次元のレベルだと、私は考えています。
4次元にまで来ると宗教やその教えは頭から外れていきます。
自分を拠り所とする、外のものに自分を委ねない、それが人間としての自立、成長だと私は思ってます。
(スピ界には「私は宗教とは一切関係ありません」といちいち但し書きしている人もけっこういますが、そのような行為は「宗教」というものに “偏見” があるゆえです)
そうは言っても、神社参りなども好きなだけ楽しめばいいと思ってます。
数珠みたいなパワーストーンのアクセサリーなども、好きなだけ集めたり付けたりしたらいい。
別に杓子定規にわざわざ宗教と距離を置く!ということをしなくてもいいんです。
内観・昇華をやっていくと、人間的、社会的な既存の教えは自然に外れていくものなので。
例えば食事をするとき、「いただきます」や「ご馳走様」と手を合わせて言ったりします。
それはそもそもは宗教的な教えから私たちの習慣となっているものなんですよね。
私は今はいちいち言ってません。
でも言うときもあります。
それは人に食事を作ってもらったときです。
外食のとき、家で家族が作ってくれたときには、その作ってくれた人に向けて「ありがとう」の気持ちで「いただきます」と「ご馳走様」を言っています。
慣習だから、宗教の教えだから、という観念は、私にはもう無いです。
神社に行くときも ( 神社に行くのは私は好きです。掃除が行き届いて気持ちがいい場所だし、お社などの建造物を見るのが好きだから )、
その神社の参拝マナー ( 二礼二拍手一礼みたいなお決まりの ) はいちいちやりません。
もしやりたいときは、手を2回パンパンやって頭を1度下げるくらい。
だって、神社に神様はいないから。
それに、私が二礼二拍手一礼しなかったからって、誰も私にいちいち目くじら立てて言ってくるような人なんていませんしね。
だから好きなように自分のやり方で楽しんでいます。
自分のやりたいような参拝のやり方で、( 二礼二拍手一礼したいならやればいいのです ) 自由に楽しめば、その神社の人たちも喜んでくれてるんじゃないかなって私は思っています。
形やマナーをガチガチに守っているうちは3次元のレベルなんですよね。
だって、それをやっているときは安心できるから。
人の言うことを信じてその通りにやっているうちは安心だから。
自分の意思というものを他所に置いてしまってる状態ですね。
人の言うことに何も考えずに倣っているうちは奴隷だと、私は思っています。
4次元に入ってくると、それまでの自分の観念が窮屈になってきます。
それで徐々に、「これまではこう伝えられてきているけどそれははたして本当なのか?」って、自分で考えるようになるんです。
周りとの調和を大事にしながら、自分の意志も大事にしていこうと思うようになるんです。
そうやって少しづつ私たちは「本来の自由の在り様、自由な本来の姿」に還っていくのです。
話がそれてしまったので戻します。
私はリサーチ中に、とある禅老師の教えを目にしました。
引っかかったので少し調べてみました。
この人はその道では有名なようで、
ネットで紹介されていたこの老師の問答のやり取りや坐禅についての記述を読んでいくと、
スピ界ではこの人の「悟り」の教えが正しい悟りとして広まり、定着しているのだな~って分かりました。
この老師は禅僧だそうで、○○宗に属してあるとのこと。
私が思うに、「悟り」に至ると、宗教の教えやしきたりに従うことは不要になるんですよね。
何かの宗派に属することもしなくなるでしょう。
宗教や宗派は枠で、
枠の中にいるうちは「悟り」はムリだと思っています。
枠の中にいるうちは自由ではないからです。
( ※ 悟りに至っても宗教の場に居続けることを選択することはあるかもしれないとは思います)
「悟り」は宗教を信仰しているうちはあり得ない、というのは私の中では大前提です。
私はここまでスピ界をリサーチしてきて、
「悟り」と呼ばれているものには
3・4次元のレベルの「悟り」と
私の提唱している真我が覚醒する 「悟り」とがあるなと分かりました。
前者の「悟り」しか知らない人には後者のことは皆目分からないだろうと思います。
今の段階では「悟り」は前者だと世間では圧倒的に認知されています。
ですがこれは私に言わせるならダミーの悟りです。
この有名な老師の問答と語録をネットで見つけたのでここで少し使わせてもらいます。
問:坐禅によって自己の問題を本当に解決された方は、これまで実際に居られたのですか。
老師:先ず第一に、私が居ります。釈尊や道元禅師など祖師方もそうでしたが、私自身それをやりました。やれたんです。私のもとにも何人かいます。決して独りよがりではない。釈尊から連綿として受け継がれて、現在に至っておるんです。
人間の見解が出てきても、出てきても取りあげずに捨てておく。
受け流しにして、一切それを取り上げない。
人間の考え方で取り扱うのをやめて、心の動きのままに動きっぱなしにして、一切いいとか悪いとかで、どうかしようということをやめて、そのまんまの様子にまかせるんです。
坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、それを善いとか、悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。ただそういうことです。
これまで再三書いてきましたが、このやり方では真に悟りに至るのは無理です。
これで至ったと思われているなら、まだ3・4次元のマヤカシのレベルです。
この老師は観劇の最中に悟りを開かれたそうなのですが、
それ、私に言わせたらスピ体験なだけです。
まだ3次元のレベルの人たちは様々なスピリチュアルの体験には疎いです。
スピリチュアルで体験するいろんなことに詳しくないです。
スピリチュアル界では思ってもみない体験や、ありとあらゆるアハ体験みたいなのもたくさんあるんですよ。
それも知らずに「悟りを開いた」と仰るって…………。
( 私はスピリチュアルはいろいろ自分でも体験してますし、スピのカラクリも見抜いてますので、スピに関してはそこそこ詳しいですよ )
【アハ体験】
●アハ体験は、何の前触れもなく突然起こる
●アハ体験によって、知覚した問題はすぐに解決される
●アハ体験は、しばしばポジティブな感情を喚起させる
●アハ体験によってひらめきを得た人は、そのひらめきの信頼性を疑うことなく信じようとする
引用元 https://theory.work/terms-aha-experience/
はっきり言って、このやり方で悟りに至れるならめっちゃ簡単やん!って私は思いますよ。
必要なのは集中力と、静かになれる場所と、あとは自分をその気にさせるだけですから。
私でもやる気になればできると思います。
私が言いたいのは、
ダミーやモドキで満足できるのか?
ホンモノがいいとは思わないのか?
ってことなんです。
ダミーやモドキでも構わないのならこのサイトからは退出されたらいいと思います。
でも、読み続ける……なら、それはなぜなのでしょうね?
あなたがこれまでの悟りの定説を信じていて、自分の信じていることに確信が持てているなら、このサイトは必要ないのですよ。
これまでに私は覚醒や悟りを目指すなら「見るだけじゃダメ」なんだよってしつこく書いてきました。
私に言わせれば、
そうやって至った境地は
「お子ちゃまの悟り」
なんですよね。
例えば人と会話してて「わ!ムカつく!」って思うことがあったりしますよね。
既存の坐禅や瞑想のやり方だと、
「ムカつく」というその想いだけを見ていく
ということですよね。
そしてムカつく想いが自然消滅していくのを待つ、見守る、
というカンジなのでしょう。
「ムカつく」に付随する、
例えば「お前、何様だよ!」とか
「それ、おかしいやろ!」とか
「絶対に見返してやる!」とか
そういうわいてくる想いも
ただわいてくるっぱなしにする、
ということですよね。
私はそれらの想いがわいてくる根っこの最底 (さいそこ) まで掘り下げて観ていってほしいんです。
それをやっていくのが「大人の対応」「大人の悟り」だと思ってます。
自分の内にある原因も何も観もせずに、それ、終わらせていいのか?
って思うんですよね。
それで何を解決できたというんだ?
って思うんですよね。
何も解決できてないんじゃないか?
って思うんですよね。
根本から解決できもしていないのに「悟り」を名乗るって、それマジか?
って思うんですよね。
既存の悟りの教えは自我エゴのやらせているマヤカシの体験に過ぎない
って私は思ってるんです。
しかもその教えが「悟り」の常識として定着してしまっている。
だから
ここまで悟りの情報が普及してるわりに真に悟りにまで行けている人がいない
んですよ。
もちろん私だって “何百年に一人” と呼ばれている人に好き好んで楯突きたいわけじゃありませんし、
一人でいきがってるわけでもありません。
皆さんが既存のやり方や教えをこれまで通り続けていきたいなら
そうされたらいいとも思っています。
ただ私は、私がやるべきことをやっているだけです。
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