ノンデュアリティの欺瞞 〜「個と全体」について〜


ノンデュアリティは下火になった……と思われているようですが。

というより、
スピーカーたちが もはや声高に啓蒙活動しなくても
ノンデュアリティはスピ界に浸透し 定着してしまっているんですよね。

スピ界って
フワフワしたマヤカシが受け入れられやすい土壌で、
フワフワしたものを楽しみたい、
自分の見つけたものが真理だと信じたい人たちが
検証することなく安易に信じてしまう
そんな場です。

私は口酸っぱく言ってきました。

「その思想は人間として真っ当なものなのか、有り得るものなのか、考えてみて下さい」と。

これやらないでスピや悟りやノンデュアリティを語っているなら魔境確定です。

(魔境確定でもご本人がそれでいいのなら他人が口出しすることではないですが)

ノンデュアリティを説く人はよく
「全体・全体性」
というワードを使います。

おそらく
ワンネス とか
空(くう) とか
そのようなものに相当するとして使っているのでしょう。

ノンデュアリティスピーカーさんの定番フレーズはこのようなものです。

私はなく、ただ全体 (全体性) だけがある。
あなたが人生を動かしているのではありません、動かしているのは全体 (全体性) です。
起こっていることすべて全体性の表現として事実があるだけ。
個人が悟った状態になるなどあり得ない、もともと個人など実在していないのだから。

さて

私がずっと伝えてきたのは

人間としてどうあるか
人間としての到達点

についてです。

そしてこの地球では、
「全体がある」というなら
当然のことながら
「個もある」んです。

地球は二元性の表現される場 ですから。

この人間世界では
あらゆるものが二元なので
「全体 (性) だけがある」という説は通用しないんです。

そして、

地球上で「分離を統合する」というのは
「自我」と「真我」の統合しかないです。

地球で生きている私たちにとっての「統合」とは
肉体を支配していた自我と
大いなる意識の顕れである真我とが合一し、
その合一された肉体と意識をもって地球で生きていくことをいうのです。

それが真の “悟り” です。

それが地球においての一元 (非二元・ノンデュアリティ) なんです。

「全体」のことをノンデュアリティと言うのでは決してないのです。

私たちが生きているうちは
肉体があるゆえ
大いなる源と完全に合一することはありません。

私たちが大いなる源と完全に一元化できるのは肉体が死んだときだけです。

ノンデュアリストさんたちが語っている思想・概念って、
定番のフレーズを挙げてみると

私もあなたも存在しない
本当は何もない
分離もない
個と全体は分離などしていない
この世界もない
時間なんてない
過去も未来もない
私を主体とした現実もない
自分もなければ人生もない
究極的には何もない
あなたは存在しないので悟る必要もない
全部マボロシ
わたしがまったくの不在だった

これって ぜんぶ
死んだ後のこと
なんですよね。

”私” は死んだことないから断言はしないでおくけど、
推測するに。

死んだ後には何もないだろう。

“私” もいなくなるし、
悟ってる人も悟ってない人もいないし、
時間もないだろうし、
思考も感情も目的もないんだろう。

スピ界のノンデュアリストさんたちが語ってる境地って、
私に言わせれば 死後のハナシ なんです。

それは現世でそんなこと語っても仕方がないレベルの
私たちには使えない論説 なんです。

現実に生きてる私たちが死んだ後の境地を語ってどーすんの?
って思うんですよね。

死んだ後の境地を地球で生きてる人間に当てはめようとしてどーすんのよ?
って思うんですよ。

人間の私たちは生きて使える情報を追求することが必要なのに、
ほとんどのスピの人は
死んだ後のハナシの方ばかりに目が向く。

それって
現実から目を背け
フワフワとして足元の定まらないマヤカシの安寧の中でヌクヌクしていたいってだけ。

そういう知識を知っている自分はレベルが高い♡と思ってるのでしょうかね。

そんな死んだ後のハナシを
生きてる私たちが取り入れて
いったい何になるのですかね。

病気も
借金も
虐待も
飢餓も
争いも

死んだ後の境地を頭に仕込めば楽になるというのですか?

そんなこと説いてもらって、
地球で生きている私たちに
何か役に立つのですか?

上記のセリフ、
例えば子供に話して、
納得させることができますか?

子供が何かに悩んだりしてるとき、
これらの考えが使えるのですか?

ノンデュアリティスピーカーさんたちは
「全体性」の中に「個」がある
と思っていらっしゃるようですが、

「個」と「全体」が合一となるのは死んだ後です。

「個・全体」という二元は自分の肉体が失せるまで統合なんてできません。

私に言わせれば、

「個」「全体」とは、
「生」と「死後」のこと。

そして
「不完全」と「完全」のこと。
※悟るまでは不完全

「有る」と「無い」のこと。
※「無いが有る」

「有限」と「無限」のこと。
※人間の肉体は有限

「動」と「静」のこと。
※心臓が動いてるかいないか

「1」と「0」のこと。
※人間の個体と無

地球はこれらの二元性の世界なんです。

「空」と「色」とかいうのもよく聞きますが、
これは何を言ってるのかなんて私はどーでもいいし、
そんなもん理解できなくてもいい と思ってます。

この地球においては、
「自我をまとっていない実体(肉体・個)」と
「大いなる意識(アカシック・全体)」とが、
純粋なる二元で、

それはその人が死ぬまで二元性のまま在り、
それは死してはじめて統合され完全な一元へと還る。

こう書くと
「全体」から「個」が生まれているように聞こえるかもしれません。

でもそうではなくて

私たちの外側に空や死後の世界や宇宙のように「全体」が在るのではなくて、

「個」の中に「全体 (アカシック・一なるもの)」があるのです。

つまり、
私たちの意識の中に「全体」はあるのです。

それが自我エゴというフィルターによって歪められ
ストレートにアクセスできていないのが私たち人間なんです。

例えば 死後の世界や霊界や幽界というものが在ると
私たちは思い込まされています。

でも本当は
私たちの外側にそういうものが在るのではなくて、
私たちの意識の中にそういった概念が存在しているのです。

この世において

「個と全体」が
「有ると無い」が
「動と静」が
「1と0」が

統合、一元になることはないんです。

でも 生きているうちに二元性を統合することも可能。

それが悟り・解脱なんです。

私の言っている「悟り」は
地球において
人間が至ることのできる到達であり、
悟るというのは個が全体 (真理) を体現できることなのです。

スピリチュアル界では

「無い」を
「静 (死)」を
「0 (ワンネス)」を

体験することはできます。

それがいわゆる一瞥体験やワンネス体験です。

「全体」や「無」は
死んだ後に経験することであり、

それは地球で生を受けている私たちが 今 追うものではない。

「 “有” と “無” という全く正反対の質を保つ世界が同時に今ここに存在している。それがノンデュアリティ」

とノンデュアリティティーチャーは言われたりしますし、

この地球では「〇〇が無い」と表現したりするけど、

それは「無」なのではなく、

「〇〇が無い」という状態が「有る」わけで、
それは「無」ではなく「有」なんですよね。

私たちが経験すべきは
「個」であり「有」であり、
それは命そのもののことなんです。

つまり
私たちが経験すべきは
「命」
だということになります。

私は
自分に問題や悩みがあるのなら、
それを
「単なる全体性の表現」
などとは思いません。

今、ここに生きているのは誰?

「私」

ですよね。

苦しみや痛みなどの問題や悩みが起こっているのは

「私」

ですよね。

全体性 って何よ?

そんな言葉で ” 自分 ” を誤魔化すことができるの?

自分の体に痛みが起こっている
人間関係に苦しんでいる

それ、

「単なる全体性の表現なだけだから〜〜♬︎」

で誤魔化せるの?

それを「自分」の身をもって解決したい

とは思わないの?

ノンデュアリティスピーカーさんは
「解決する」をやるのも「全体性の表現」と言うのでしょう。

でも私は
「私」に起こっていることを
「全体性」にわざわざ置き換える
その意味が分からない。

そんな風に知ったかぶりしたがるのも、
悟りに至っていない生悟りの妄想の極み
と言う他ない。

以前に私は
『この地球で幻想でないものは実体だけ』
と書きました。

その実体すらも幻想
と言うノンデュアリストさんもいるでしょう。

「個が幻想なら全体も幻想」だとね。

それも
私たちが死んだ後のハナシなんですよ。

スピ界はそのような 死んだ後のハナシばっかしてるスピーカーさんが多すぎるんです。

死んだ後のことなんてどーでもいいでしょ!
地球で生きてる人間のことを話そうよ!

って私は思うんですよね。

こういうスピオタクさんって、
覚醒して知覚したことではなくて、
自分の “自我の頭” で考えたことを結論として語っているだけ。

つまり
空論、想像、妄想の域を越えていないのです。

自我にいいように操られマヤかされてるってことです。

ノンデュアリティティーチャーたちは
ここまで観ることもなく
上っ面だけでノンデュアリティを説こうとするけど
そんなのは ムチャぶり なんです。

この「個と全体」という二元が統合されるのは
自分という肉体が死んだときにしか成すことができないのだから、
ここ地球においては
「個と全体」は別個にして考えるしかないんです。

それなのに

ノンデュアリストさんって
個と全体をごちゃ混ぜにして語っちゃってるのですよね。

以前「ミクロとマクロ」という記事にも書きましたが、

ノンデュアリティスピーカーさんたちは
「人間 (個)」のことをまだ何も分かってないし
解明もできていないのに、
ノンデュアリティとして全体性での視点を
妄想レベルの空論で説いてるんです。

それは
何も分かってないレベルにまだいるから
です。

スピリチュアル概念に頭を侵されてるから
です。

自我エゴに誑かされてるからです。

おのれの浅い知識を「自我 (自分) なんてない」というノンデュアリティ思想として誤魔化してるんですよね。

ノンデュアリティスピーカーさんたちは
「問題なんてないんです。苦しみは全体性の表現なだけ」
「全体性」という言葉をこぞって使いますが。

あなたたちまだ「全体性」を語れるレベルにまで来てないでしょ。

「個」のこともまだろくに解ってない人が
「全体」の何を解るというのですか?

自分自身のことをぜんぶ観れてもいない人に、
自分自身の探求を終えてもいない人に、
「全体」のことが語れる道理はないんですよ。

スピリチュアル界って、
自我エゴって、
何でも自分の都合のいいように
話を作っていってしまうんです。

スピ界で語られていることの大半が自我エゴの作り出す空論なんですよ。

そんなこともまだ分かってない人にノンデュアリティが語れるって、
自我エゴにのまれている人にノンデュアリティが語れるのって、
オカシイと思わなきゃオカシイのですよ。

……なのですが、
まぁ言いたいことなら言えばいいと思います。

そもそも、

「全体性」というワードを使うってのが
「個」との分離を示していることになっており、

そこのところまで頭が回っていらっしゃらないのでしょう。

非二元を謳うノンデュアリティスピーカーたちは
「全体性」と言いたいのなら
「全体性」と「個」の一元化にまで言及すべきなのでは?

ダミーのノンデュアリティがスピ界にこれだけ浸透してしまったのは
自分はノンデュアリティを分かっている♡
という増上慢ゆえです。

ダミーを世間に拡散しまくってる
というのは
それだけのカルマを積んでしまってる
ってことです。

他者に何かを説きたいと思うのならば、
地球において
人間に有益で使える概念を説くべきであって、

死後の概念なんて必要ないんですよ。

地球で生きている人間が
艱難辛苦をどう乗り越えていくか
そのために何が役に立つのか
何をすればいいのか
考え、実行する

人はそういうことが聞きたいし、知りたいのです。

死んだ後だけに通用する概念を取り入れて、
艱難辛苦が失せるのかな?

死んだ後の境地を体験するのは
死んでからでいいんじゃないのかな?

ラクできる誤魔化しの方法を知りたがるのは自我なんですよ。

ノンデュアリティ定番の
「体験だけがある。それを起こしている人はいない」
というフレーズ。

前に何度か書きましたけどね。

私たちのあらゆることを起こしているのは自我です。

ダミーのノンデュアリティ思想によって

勝手に起こっている
自動的に起こっている

そう思わせられているだけなのですよね。

すべて
自我が起こしているんです。

そして脳内も自我に占領されているがゆえ、
ノンデュアリティの思想を洗脳されてしまっているのです。

それから目が醒めなければ魔境固定です。

別にそれでもいいのですけど、

「死後の視点」がこの人間世界に必要ありますか?

そういう視点とか解釈が浮世離れしてるっていうんです。

グラウンディングできてないってことなんです。

死後の視点から人間を見てどーすんの?って思うんです。

ノンデュアリティ思想のような講釈を垂れたがる人って、

「自分はこういうことまで理解できてます~」って

増上慢なのが丸見えなんですよ。

そんな浮世離れしたこと語るヒマがあるんなら自分の闇を見ろよ!

って私は言いたいです。

このサイトにたどり着いた方は
自分の考えていることがちゃんと人間として地に足ついてるか、
浮世離れしてないか、
一度 見返してみてください。

スピレベルのノンデュアリティや
フワスピ系の人たちが語っていることは
ほとんどが宇宙規模 (空想・妄想) のことばかり。

つまり地球に根ざすグラウンディングができてないスピオタクさんたちの妄想語りに過ぎないのです。

彼らが語る思想は
私たちは地球で生きてるんだってことが
どっかに行っちゃってます。

だから頭がフワフワしてる (地に足ついてなくて浮わついてる) と言われるのです。

スピの宇宙規模・死後の視点で私たちを語ると、

私はいない
時間はない
すべて幻想
何も起こっていない

でも地球で生きてる私たちには、

“私” はここにいるし、
時間はあるし、
何かが常に “私” に起こっている

それらを無いものにしようとしてるのがスピのノンデュアリティなのです。

それは

自分に起こる辛いことや悲しいことや苦しいことは幻想なんだから、
”私” には何も起こっていないのだから、
思考をノンデュアリティにしてごらん
何も感じなくなってラクになれるよ♡

って問題や悩みが山積みの現実から目を背けさせ、

何もする必要はないんだよ~

って現実逃避させ、

それはイコール

アナタがたを覚醒から引きはなそうとする

自我の策略の思想を
アナタがたに植えつけようとしてるってこと
なんです。

そんな現実逃避になるような思想をマジで信じ続けてると
覚醒どころか魔境固定のままになります。

私たちの人生にわいてくる
辛いことやキツいことや苦しいことをしっかりと経験する

辛くて向き合えないならそれでもいいの。

でも できそうなら、
それらの経験について内観する。

辛い苦しい経験を根底から乗り越えられる方法は内観しかないのです。

もちろん覚醒してないんだから “自我の頭” であれこれ考えるのは構わないのですが、

それを確定事項として語るのは早い
ということに気づけないのですよね。

なぜならスピリチュアルエゴがあるから。

自分なんていなかった
自己の不在を見抜けた
誰もいないんだから悟る人もいない
個人の誰かが気づくのではなく全体性が気づくという体験をしてるだけ
気づきを所有できる人なんていない
悟りや悟る誰かなんていない
分離はない

これらのノンデュアリティでよく聞く説明をしているのは
その人の自我
なんですよ。

それ、分かってませんよね?

一瞥体験もそうなのだけど、
一瞥の体験をして、
誰もいなかった!
ならば悟る人もいないってことだ!
ちまたで言われるノンデュアリティの教えは正しかった!

そう思わせているのはアナタの自我
なのですよ。

個人なんていない
悟る人なんていない

そう思わせて
悟りを諦めさせる。

それが自我エゴのやることなんですよ。

個人なんていない
あるのは全体性だけ
ストーリーだけ

それが自我エゴの目眩しなんですよ。

フワスピやノンデュアリティにハマるレベルの人は、
自我のそういう手の込んだ筋書きを見抜ける目なんてまだ持ってないですからね。

スピ界になぜ
「私はいない」
「個人なんていない」

などというノンデュアリティ思想が広がったと思ってますか?

覚醒の妨害に決まってるでしょ。

自我を見抜いたと思わせといて、
自我の迷妄にまんまと取り込まれちゃってるわけですよ。

悟りやノンデュアリティがそんな簡単なものじゃないということは仏陀誕生以前より周知のことでしょう?

それがなぜアナタに分かると思うのか?

それこそスピリチュアルエゴに囚われてるって証なのですよ。

傲慢だってこと。
増上慢だってこと。

「あ!自己が不在だ!」って気づいた?

そう気づいたのは自我なのですよ。

そして
「自己の不在!これがノンデュアリティなんだ〜〜!」
って分かって喜んでるのも自我。

ノンデュアリティについて語れる人なんて
実際は この世には ほぼいないんですよ。

死後の話をこの地球で生きてる人間たちに広めてどーすんの?

って思いませんか?

こんなの、生きてる私たちの役に立つと思いますか?

もし役に立つと思っているんなら、
人としてこの地球に生きるということが分かってないってレベルってことです。

人間に与えられたものを活かすことから逸脱してるってことです。

こういうフワスピ思想やノンデュアリティ概念というトラップをあちこちに撒き散らしてるのが私たちの自我なんですよ。

分かるかな、
自分 (自我) で撒いたトラップに自分 (自我) で引っかかっている!
ということが。

だからそのトラップを見抜いていかなきゃ覚醒していけないんですよ。

ノンデュアリストさんたちは「観念もない」と言うのだろうけど、

本心からそう思っているのですか?

もし1ミクロンでも疑念があるならそれは『自分を欺いている』ってことですよ。

最初から観念がない人なら昇華させるようなものもないわけなんだけど、
そんな人間なんてこの世にはいやしません。

それどころかほとんどの人間が自分で作り出した観念 (自我&エゴ) という幻想に囚われて生きている。

だからその幻想を取り除いてやれば
自我&エゴのない ” 本当の自分 ” に戻れるのですよ。

「自我&エゴや観念なんて幻想、元々ないんだよ」と言うのは簡単。

だけど現に 私たちはそのありもしないはずの観念や規律 (幻想・自我&エゴ) にがんじがらめになって生活しているのです。

その幻想から自由になる
その囚われから脱する

それが悟りを目指すっていうことなのですよ。

私たちが目指しているのは、
生きているのに死んだ後みたいな状態になることではなく、
生きているうちに生きている人間として彼岸に渡ることなんですよ。

ノンデュアリストさんは

「悟りなどありません。
悟った状態というものはないのです」

と言うけど、

これ、
悟りにまで至ろうという
やる気と根気がハナからないだけ。

自分を直視する勇気がないだけ。

その言い訳に
「悟りなんてないのです〜」
って 予防線張ってるだけ です。

ノンデュアリティでは

「 “実体” はありません」

とも言われますが、

「実体」がなければ「無い」のか?

その ”実体の無い過去や記憶” に
私たちは振り回され、
影響され、
自分というものが作り上げられてきたんじゃないですか?

無いものに自分は作り上げられてきたと言うのですか?

「自分という実体も無い」なんていう思想を鵜呑みに信じるのは勝手だけど、

私に言わせたら、

”自分” から目を背けているだけ

ノンデュアリティスピーカーさんたちは
「委ねきる」とか「全自動」とか
言いたがりますが、

その境地で生きれるのは
5次元覚醒 (悟り) した人だけ

なんです。

5次元覚醒 (悟り) まで行き着けてもいないのに
「委ねきって」「全自動」で暮らしても、
それは人としての生き様をぜんぶ投げ捨ててしまっているってことになるんです。

「すべてはただ起こっている」
「ある我ままに受け入れるだけ」

そういう境地で暮らしていけるのは
真に悟り到達した人だけなんですよ。

なぜなら
『起こっている』ことについて観る必要がもうないから。

観るものがもうないから。

ただ起こることをある我まま受け入れるだけでいい境地だから。

でも未覚醒の人たちには
起こっているものの中に観るものがまだたくさんある。

それも「ない」と言って無視するなら
ずっと自我の牢獄に囚われたまま生きていくことになります。

私たち人間が地球に生まれてきているのはなぜなのか?

「何もする必要ない」ような人生を送るため?

今回 タイトルにつけた『欺瞞』とは、
自称ノンデュアリストたちは自我にマヤかされている、
自我に騙されている
という意味。

いやノンデュアリストさんたちだけでなく
すべてのスピオタクさんも
自分を欺いていることに自分で気づけるかどうか。

もちろん、
これからも「人生は全自動♡」という思想で人生を生きていきたいなら、
ずっとスピリチュアルのマヤカシの世界にいたいのなら、
好きにすればいい

アナタの人生なんだから。

最後に、格言をご紹介します。

人生の目的は行為にして、思想にあらず。
〜 トーマス・カーライル 〜


決して人に欺かれるのではない。
自分で己を欺くのである。
〜 ゲーテ 〜