ノンデュアリティについて

 

PSX_20190803_174459.jpg

今までほとんど興味なかったのですけど、
ふと思いついて『ノンデュアリティ』についてリサーチしてみました。

すでにけっこうな数のノンデュアリティ実践者、体験者がいるようで、
あちこちのブログで懇切丁寧にノンデュアリティを説明されていますね。

ノンデュアリティはスピリチュアル業界にほぼ定着し、
知らない人はいないほどにもう認知されてると言えますね。

ここからは私自身の体験と知覚を基に、
ノンデュアリティについて思うことを書いていきますね。

スピ業界でもてはやされるようになったノンデュアリティ。

あれ、4次元スピリチュアル体験の1つに過ぎないのですよね。

だって、
自我&エゴが野放しのままなのに
ノンデュアリティの境地を実践できると
勘違いしている人ばかりですから。

自我&エゴをないものにできると
マジで思ってるんですかね。

“ 私 ” も
思考 (自我&エゴ) も
時間も
因果も、

そんなものないんだよ~と、

「私はいない」と思えるようになれたら
自分を苦しめてる問題なんて消えてなくなるよ~~
と思ってるんでしょうか?

ノンデュアリティの思想をモノにできたら
私たちの人生のあらゆる “苦” から解放されるよと
言ってるんでしょうか?

ノンデュアリティをモノにできれば失せてしまうくらいなら、
なぜたくさんの “苦” がこの世にはひしめきあっているんでしょうかね?

私たちはバラエティ豊かな映画の中から、
好きなジャンルを選んで観てるだけなの?

そこにナマの生はないというの?

まぁ そう思いたいのなら思っていたらいいのです。

私から言わせたら
スピ業界で広まっている『ノンデュアリティ』は
その人に必要な体験をしてるだけ
なのですよね

この上っ面だけの
いいトコ取りで
調子のいい
『ノンデュアリティ』が
“ スピリチュアルの究極の境地 ”
なのではありません。

『不食』や『聖者』などと同じで、
4次元というスピリチュアルな世界で、
『ノンデュアリティ』の体験をするプログラムの人が
それを体験しているだけに過ぎない。

なのでノンデュアリティやりたい人はやればいいし、
理解できない人 納得できない人は ムリしないで関わらなければいいだけのこと。

ノンデュアリティの看板みたいな人がいますね。

あの人は完璧にノンデュアリティを実演しているようですね。

だけど私からは魔境に囚われているレベルに見えてます。

“魔境” ってね、
怖い漢字が使われててオドロオドロしく感じてしまうけど、
心配しなくても大丈夫。

恐ろしいものじゃないですからね。

魔境ってね、
言ってみればスピリチュアル世界そのもののことなのです。

だけど 抜け出せるレベルと抜け出せないレベルがあるのですよ。

自分で気づけて抜けられる浅いレベルなら
そこからまた進んでいくこともできるのですけど、

深すぎるとそこに固定されてしまい、
もう自分からは抜け出せない可能性もあります。

例えば
シ〇〇ヒーリングの開発者や
フワフワスピの代表格エ〇〇〇〇セラピーで有名な人なんかもそうですね。

宗教の熱心な信者なども
囚われたまま抜け出せる余地がなくなると固定レベル。

彼らは
何を言っても聞く耳を持てない、
目だけでなく耳も閉じてしまってる、
そういうレベル。

そういう人たちに限って
自分はお目目がパッチリ開いてると思い込んでいる。

誤解しないでほしいのですけど、
決して魔境が悪いと言っているのではありません。

そういう人生の体験をする
という
その人のプログラムなだけです。

つまり魔境に囚われた人を私たちは目にしている
そういう人を自分の前に顕現している
ということです。

魔境に囚われた、という言い方は大袈裟かもですね。

4次元スピで固定終了という人生を彼らは自分でプログラムしてきているだけなのだから。

「人のフリ見て我がフリ直せ」

それができるうちが花。

そして何事にも固執しすぎないこと。

囚われすぎないように。

すべての体験は通過点に過ぎないと思うべし。

4次元マヤカシのノンデュアリティについて書くのはこのくらいにしておきます。